共産中国成立後の中国服

1949年10月1日、中華人民共和国が成立。
共産主義国家として、新しい一歩を踏みだしました。
“文化”のありかたが大きく変わり
その影響は旗袍にも及びました。

見たい年代の写真をクリック!

建国〜文化大革命前夜
19491960年代前半)
 共産主義になったからといって、すぐに全ての風俗文化が変化するわけではありませんでした。旗袍もしかりで、生活習慣として旗袍を着続ける女性も少なくなかったと思われます。強いて言えばデザインが以前に比べるとシンプルになり、生地もサテンやレースなどの派手なものが見られなくなったことくらい。つまり、日常着としての旗袍は依然存在していたということで、特に都市部の女性は、まだまだ旗袍を日常着にしていたのです
基本的なデザインは解放前とあまりかわらないが、服地が地味になり、シンプルな仕立てのものが主流である。
人民公社の増産を願うポスター。子供たちの服装は色とりどり、デザインもあかぬけていて、当時の日本とそう変わらない。共産主義とはいえ、全ての文化が規制されてしまったわけではないことが伺われる。
(1960年代初頭頃)
文化大革命期
19661977
 火種にまでさかのぼると13年にも渡った、中国建国以来最大(最悪とも言える)の政治運動、文化大革命(以下文革)。旗袍をはじめとする中国服の文化はまさに絶滅の危機を迎えました。
 文革についてはさまざまな資料があるのでここでは詳しく触れませんが、初期の頃には、“破壊四旧”(旧文化、旧風俗、旧習慣、旧思想を破壊する)の旗印のもと、寺院、教会をはじめ、ありとあらゆる四旧に属するものが、紅衛兵によって破壊されました。街の片隅に眠るものでも、少しでもそのニオイを感じさせればことごとく糾弾の対象になったのです。
 旗袍もその対象になったことは言うまでもありません。うっかり旗袍で街を歩こうものなら、たちまち捕まってハサミで切り刻まれ、酷い時には頭をバリカンで刈られる始末です。万が一の抄家(家宅捜査)で旗袍が発見されることを恐れ、多くの人は、持っている旗袍を全て燃やし、切り刻んで、迫害を逃れました。
 時代が近いにも関わらず、今の中国に民国期以降の中国服があまり残っていないのは、このような背景によるものです。 
1967年、夫の国家主席・劉少奇と共に批闘大会にかけられた時の王光美。外遊で旗袍を着て、晩餐会でネックレスを身に付けたことが、毛沢東夫人・江青の逆鱗に触れた。旗袍、ピンポン玉でつくったネックレス、サングラスという服装をさせられている。
北京の東交民巷は、古くからの外国公使館街。というわけで、街路名も“反帝路”に変えられた。北京ダックで有名な全聚徳が“北京[火考]鴨店”に改称されたのも文革時で、元の名前に復活したのは80年代も末になってからである。
改革・開放後
1985
 3000万人の人的損失を生んだと言われる文革終結後、しばらくはその傷跡からの復興に追われていた中国ですが、改革・開放路線が軌道に乗り、ひとびとの生活が豊かになるに従って、旧風俗の見直しが行われるようになりました。
 旗袍以外の中国服、例えば短襖(中国のブラウス)などは、農村の人や都市部の老年層が木綿のものを着続けていましたが、文革で糾弾された旗袍が復活の兆しを見せ始めました。とはいえ、時代の流れですでに活動的とは言い難いものになっていたので、主に結婚式の晴れ着としての復活です。90年代前半まで、旗袍と言えば晴れ着であって、大きなデパートや専門店でのオーダーが中心で、いかにもチャイナドレスといった感じの緞子が使われました。
 ところが90年代後半になり、懐古ブームに乗って民国期の文化が見直されはじめました。写真はその好例で、テイストはまぎれもなく民国そのもの。オーダーのみならず、吊るしでもこんな服が買えるようになりました。2002年現在は専門店が軒を連ね、デザインも個々の店の個性を競い合っています。
 2001年秋上海で開かれたAPECで、各国首脳が“唐装”と称する緞子の上着を着ていたのは記憶に新しいところでしょう。これをきっかけに、2002年の冬の街には、同じような上着を着る人が溢れています。
高めの衿に3つボタン、衿下に這わせたパイピング、タイトすぎないシルエット。プリントジョーゼットで、街着としても大丈夫。こんな30年代リバイバルを匂わせる旗袍の特集が、雑誌でも組まれるようになった。
(1998 東方航空機内誌より)
オーソドックスな短襖をアレンジし、今のテイストに合わせたデザインの中国服たち。右から2番目のケンゾーっぽい柄のものは、農村でふとん皮に使われる厚手の木綿を使用している。一昔前なら、ふとん皮を洋服にするなんてと大笑いされたであろう。中国人の美意識が大きく変化したことの表れである。
(1999 上海・卿卿服装)