血もまた運命なり

王華の父親が新宿中村屋の創業者を取材した時のスナップ。
椅子に座り、綿入れの旗袍を着ている方が創業者、後方中央が父。
昭和20年代後半の撮影
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| 小さい頃から、食卓が他の家と違うなあとは思ってた。 ネギがおいしい季節だと言っては、正月に“春餅”(家では“チェンピン”と呼んでいた)という名前の、北京ダックを包む小麦粉の皮にキュウリ、モヤシ、にんにくで味付けした肉の細切りと味噌をくるんだものを食べ、夏は夏で、春雨と野菜の千切り、錦糸玉子、細切り肉を辛子胡麻みそで和えた、“涼菜”が定番なのである。当時、家庭でのニンニクの消費量なんかたかが知れてて、ほとんど使わない家庭もあったのではないか。なのに、家の台所にはニンニクがいつも転がっていて、ふんだんに使っていた。 我が家は満州帰りなのである。祖父はシベリア出兵の頃から満州に住み着いていて、小さい頃は、満州の話、戦争の話をよく聞かされた。曰く運送屋をしていた新京(今の長春)での暮らしぶりは相当良く、ロシア人の門番がいて、中国人、朝鮮人の従業員を何人も抱えていたという。父は、イギリスのパブリック・スクールを模して創立された新京一中の一期生で、クラシックのレコードを何百枚と買いあさったり、社用車のフォードのトラックを無免許で乗り回したすえに、事故でオシャカにするようなどら息子だった。祖父の多忙で構ってもらえない祖母はとっとと家事育児を放棄し、連日の賭け麻雀で幾晩も帰らぬ有り様で、平穏無事な家庭とはほど遠かったようである。 祖父の運送業は身分を隠すための仮の姿で、実は特務だった。シベリア出兵のあとモンゴルで馬賊をしていた彼に、何のきっかけか陸軍参謀本部のお声がかかったのだ。羽振りが良かったのは、軍から仕事がコンスタントに入ったからではなかろうか。満州事変の前後1週間は忽然と行方をくらまし、死ぬまでついに行き先を明かさなかった。 祖父はちょっと変わった人で、街で中国人浮浪者を見つけてきては風呂に入れ、新しい服と食事を与え、従業員には国籍問わず平等に接し、慰安旅行がわりのピクニックには、家族ぐるみで招待した。また、八路軍(のちの解放軍)の息がかかった中国人が従業員に紛れ込んでいたが、その人たちはとても仕事が出来たので、スパイと知りつつ役職を与え、わいろや着服で私腹を肥やすものを追い出した。そんな特務らしからぬ行動は憲兵隊のカンに障り、彼らとは仲が悪かった。 終戦の時、祖父母は当然裁判にかけられたが、それを救ってくれたのが、元従業員の八路軍兵士たちだった。よって死刑は逃れたが財産は全て没収され、最後の氷川丸に乗って、無一文で故郷の岡山にある実の兄のところに転がり込んだ。 一方父である。満映にちょっとだけ所属したあと日本映画学校の学生になった彼は、手違いの学徒動員で陸軍航空隊に編入され、最後は写真班で特攻隊員の最期の姿を撮っていた。終戦を知った彼は日本に帰るつもりなど毛頭なく、どうせ両親は死刑だろうと、北京でヤミ屋をはじめたが、「空軍の人材が少ないから」と、八路軍(のちの中国人民解放軍)からスカウトされ、入隊することになった。 ところが父は元写真部隊。後方部隊もいいところで、実戦にはまるで役に立たない。八路軍の求めていたのは即戦力だから速攻でクビになり、仕方なく帰国をすることになった。そして岡山で無事再会を果たした親子は上京し、戦後の日本に骨を埋めることになる……。 なんでまた家の略歴などをわざわざ語るかというと、私が中国と関わるきっかけをつくったのは、ほかならぬ“血”だと思うからだ。満州=「妻子を連れて松杉を植えに行く」場所という公式は、馬賊→特務、博打で放蕩三昧、ヤミ屋→八路軍の彼らにまるで当てはまらない。 結局私にもその血が流れているのだ。中国に関わる人なら、まずは関連企業なりに就職し、やりたいことができないとぼやきはしても、安定した日々を送るのが普通ではないか。ところが私ときたら、自分の好きなこと、面白がれることがやりたいばかりに、いまだに根無し草である。やはり私も松杉が植えられないのだ。そして、一番面白がれることが、たまたまむかしの上海だったというだけの話なのである。(という言い訳が言いたかっただけ。でも家の歴史は実話) |
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