2003.1.16〜2003.1.22
1元=約15円です

1月18日 晴れのちくもりのち通り雨
 8時に起きて、食堂で朝ご飯を摂る。おかゆ、ゆでたまご、ザーサイ、そして肉まんか野菜まんのチョイス。朝食メニューは毎日同じだった。最後のほうはちょっと飽きたぞー。贅沢は言わないから、せめて3日に1回は麺にするとか、卵をいり卵にしたり目玉焼きにしたりとかしてくれたほうがいいと思う。でもまんじゅう類はここの自家製。最終日、早朝5時にホテルを引き払う時に、厨房の開いたドアから、フロントのおっちゃんから総出で白い上っ張りを着込んでせっせとまんじゅうをつくっている姿が見えたから。で、これは宿泊客だけではなく、外にセイロを持ちだして出勤前の客に売ってもいる。人通りが多いし、バス停が目の前だからさぞ売れるだろう。ホント、こういう細かい商売が上手だよね、上海人は。ちなみにこのホテルは個人が「承包」(請負い)という形で上海市から建物を借り上げて経営している。どんなやり手かと思いきや、経営者は中年の「マジそこらへんにいそうな」オバハンである。

 朝食を済ませて、待ち合わせ場所の交通大学の正門まで歩く。待ち合わせ相手は、留学時代の友人のX。音楽学院を卒業したあとは音像資料室やら校内発行の雑誌の編集などをしていたが、今は自分の専攻楽器の先生をしている。今日は彼女のお母様に洋食をつくってもらい、それを取材することになっている。
 上海は歴史の関係上、西洋文化が庶民にまで入り込んでいる街。だから西洋料理も家庭料理として組み込まれている。それをむかしの上海を知る老婦人につくってもらい、庶民の洋食文化について語ってもらおうというのが趣旨。どんな料理かというと……それは本が出てからのお楽しみ。

 交通大学までの所要時間は30分くらい? 華山路をゆるゆる歩いて向かったが、すっかり整備されて道路も拡張され、西側が緑地帯に変わっている。緑が増えるのはいいことだけど、どこを歩いても同じ風景に見えて何か味気ない。潤いを出すつもりが、かえって荒涼とした風景になっちゃったなーと思うのは私だけなんだろうか? 途中、テレフォンカードの度数がほとんどなかったのを思い出し、50元のやつを購入する。

 交通大学は、戦前東亜同文書院だったところで、江沢民が卒業したいわゆる「名門校」。赤門はすっかり綺麗に塗り替えられているけど、中にある元図書館(今は何に使われてるんだろ?)はむかしのままで、赤レンガの美しさに思わず見とれる。
 ところで待ち合わせ時間を20分過ぎてもXが現われない。あれ? 広元西路の門ってここじゃなかったの? と思い、キャンパスを斜めに横切ると、なーんだ、広元西路沿いに門があったんだ。待ちぼうけてるXを発見。

「アンタ全然変わってないわねー」というXのこめかみには白髪が目立つ。そうかぁ、もうそんな歳なんだね、私たち。中国の女性は、子供を産んだら落ち着くのか、なぜか急速に老けてしまう人が多い。彼女もそのクチだろう。でも老年になってさらに老け込む人はあんまりいなくて、初老のまま80になり、90になる人が多いということがいつも不思議だ。

 歩いて5分ほどのところにあるご両親が住むアパートに向かう。彼女のお父様は北京出身。実家は西瑠璃廠で一番大きな筆の店、というと知っている人も多いだろう。もっともこの筆店はとっくの昔に国営になってしまったんだが。北京の学校を出たあと交通大学の先生をしていたので、だから住まいも交通大学の教員宿舎である。定年になってもこうして宿舎に残れるのは、国家公務員の大きな特典。贅沢さえ望まなければ、快適な老後が送れるのだ。

 Xが独身だったころよく訪れたこの家は全く変わっていなかった。小さなキッチンにリビングダイニング、主寝室。彼女の部屋だったところは今物置兼お父様の昼寝部屋になっている。それからバストイレ。いわゆる2LD+Kというやつだ。典型的な職員住宅である。そして、ご両親とも「老けたよー」とは言うが、私の「中国人は老年老けない」説を裏付けるように変わりない。

 Xも手伝いながら2品ほどつくってもらい、加えておいしい上海の家庭料理が昼過ぎにはでき上がった。私はせっせと写真を撮り、聞き込みをする。彼女の家で何がうれしいかというと、料理もさることながら、必ず甘い点心が出てくることだ。この日もあんこを入れた小さな春巻きと、揚州出身のお母様の「秘伝」の蒸し菓子が並ぶ。夫婦定年で1日中家にいてヒマだから、と今は仲良く点心の「新作」づくりにはげんでいるらしい。お父様は「いい糖桂花(キンモクセイの砂糖漬け)を探してあれこれ買ってるんだが、どれも塩気がキツくてねぇ。やっぱり自家製かねぇ」などと言う。何ともほほえましい話である。熟年離婚だ何だと言っている日本の夫婦に聞かせてやりたいセリフである。

 Xの、高校進学を控えた娘も交じり、にぎやかに昼食を済ませる。食事中、お父様と水仙の水栽培について話が盛り上がる。春節(旧正月)の水仙は付き物で、元日に開花日を合わせて水栽培をする。新暦の正月が明けるちょっと前から、街の花屋には水仙の球根が溢れる。北京ではそのまま水に挿すが、上海では、球根を専用のナイフできれいに削り、中に隠れている新芽を外に出してやる。この削り方もなかなか奥が深くて「○○型」とかいちいち名前がついているのだ。私も上海に住んでる頃は、毎年買って我流で削って楽しんだ。お父様はちょうど宿舎内の「老人活動室」で水仙の削り方講習に参加したばかりで、それを私に伝授したくて仕方ないらしい。水仙を削るのは、コウロギのケンカと同じで、どちらかというと男の遊びなのだ。

 話が盛り上がり、じゃあ、というわけで、お父様と連れ立って近所の花屋を訪れるも、時期が時期なだけに(今から削っていては正月に間に合わない)、削ったものしか店頭に並んでいない。仕方ないね、と削られたものを2つ買う。でも、これって日本の検疫で確実に引っ掛かるよな。というわけで、後日この球根はYさんにあげた。

 家に帰るとXがすごく眠そうである。何でも学校の先生方と深夜2時過ぎまで新天地で話し込んでいたらしい。ご両親も朝早くから準備や何やで疲れているだろうし、おいとますることにする。近場の徐家匯まで一緒に行き、そこでXとわかれた。
 なにげにショッピングセンターに入ってみる。そうしたらもういけない。まずは新華書店で本を3冊。それからふらふらと下のフロアに向かい、中薬を使った基礎化粧品の店「佰草集」でシャンプーとリンス。ワゴンで安売りしてる手袋屋で、子供の手袋。それだけならまだいい。同じくワゴンのタオル屋で足が止まる。そうだバスタオルがかなりくたびれてたよなあと、バスタオル4枚とフェイスタオル2枚。一体全体、上海でわざわざバスタオルをまとめ買いするバカがどこにいようか。嵩張った荷物を抱え、ぼうぜんとするがもう遅い。北京に住んでいた頃、上海でこういったものをまとめ買いして「オマエは難民か。もしかしてトイレットペーパーまで買って帰るんじゃないの?」と友人に大笑いされ、「そうだ! 北京のトイレットペーパーって紙質が悪いのよ!」と叫んであぜんとされた頃と、全く変わっていない。多分一生直らないだろう。

 時間は夕刻。晩ご飯にはまだ早いし、昼たらふく食べたせいで、お腹も減っていない。とりあえず荷物をホテルに置こう。タクシーを捕まえ、ホテルに帰る。
 実はもう1人どうしても会いたい人がいる。正確には2人だけど。留学時代の恩師、Z先生とL先生だ。そのうちZ先生にはどうしても今回会っておきたい。というのも、先刻Xから聞いたところ、ガンで長いこと入院し、今は自宅療養中だというからだ。「かなり(状況は)悪かった」というXの言葉に、「もしかして会えないかも…」と思いつつ、電話をかける。すると「もしもし」と男性の声が。「(あれ? 誰これ?)あのー、Z先生いらっしゃいますか?」「ZZですか? ZTですか?」「ZZ先生ですが…。あれ? もしかして先生? 私ですぅ!」「アイヨー! オマエか!」とたんに懐かしい先生の声になった。どうも電話では声が聴き分けにくい。
「今上海なんです。夕食が終わられた頃伺いたいんですけど」「もう済ませたよ、いつでもいらっしゃい!」
 良かった。声は元気。急いでホテルを出て、向かいのコンビニで「脳白金」を買う。老年向けの滋養強壮ドリンクで、CMががんがん流れてるから一度買ってみたかったのだ。私も結構ミーハーである。

 バス停を1つ間違えて余計に歩いてしまい、さらに復興路が一方通行になったのをすっかり忘れて、とんでもないところでバスを降りたせいで随分歩いてしまい、結局先生宅に着いたのは1時間後。ちょっと痩せたけど、血色も良くて一安心。奥様も相変わらずだ。しつこいようだが、中国人はホントに老年になってから老けない。
「毎年年賀状をくれて、まだ私のことを覚えててくれるなんて、ホントにうれしいよ」と繰り返し言う彼の人生は決して恵まれていたとは言えない。民間音楽からスタートして50年代音楽学院に入学し、大家・衛仲樂先生(故人)に琵琶を習うも、「押しと政治力が命」の当時の民族音楽界にあって、彼の性格は控えめすぎた。上海人が最もバカにする「蘇北(揚子江北岸)」出身だったのもいけなかった。教え子を次々と北京の中国音楽学院(民族音楽教育機関の最高峰)に送りだしているにも関わらず、定年までずっと付属小学の「講師」止まりだった。「掃除のおじさんかと思った」と笑う人もいるくらいいつも質素な格好で、とても音楽をしている人には見えなかった。そんな視線にも処遇にも決してグチをこぼすことなく、ひたすら「生徒のために」と教え続けてきたのである。
 なぜ私がそういう先生につくことになったかというと、最初についた先生が「カネカネ」の人で嫌気がさしたから。この人は音楽コンクールで受賞したこともあり、実力も実績もあったのだが、何かにつけて「カネ」を要求する。そこで学校側に先生を変えてくれと言ったところ、Z先生になった、というわけ。当時、琵琶の教師で通常授業ができるのは、この2人しかいなかったのだ。有名な先生はいるものの、その人は演奏旅行だ学会だといつも学校を留守にしていた。
 Z先生の教え方は合理的で簡潔だった。そして何より私が好きだったのは、昔の弾き方をそのまま守っていることだった。民族音楽は常に「改良」され、常に「超絶技巧を目指さねばいけない」とされていた当時、先生の弾き方はすでに時代遅れだったのだ。私は爪がすごく柔らかいので仕方なくつけ爪をつけていたが、先生は昔の教えを守り、決してつけ爪をつけることはなかった。琵琶の他に二胡(胡弓)も京劇の歌もできた。今は西洋音楽教育の影響だか知らないけど、他の楽器もこなす人はむしろ少ないが、もともと民族音楽といえば、状況に合わせて何でもやる、が当たり前だったのだ。

「幽門にできた腫瘍を摘出したあと、転移もなく、今は漢方薬を飲んでいるんだ、最近は歌も時々やるし、琵琶だって教えるのは難しいけど、時々弾いてるんだ。それにしてもまあ、よくも忘れないで訪ねてくれて…」と語る先生のまなざしは、昔と変わらず誠実で温かだった。この誠実なまなざしにはぐくまれ、巣立っていった生徒たちは、便りの一本もよこさないのだろうか? 上海のみならず、中国は今高度成長期を迎えている。音楽の世界も同じで、学院も生徒が急増して、校舎を浦東に建設中という。いつも前に進まないとたちどころに取り残される。上海では特にそれが顕著だ。そんな上海を、日本はやいのやいのと採り上げる。でも私は「昔があるから今がある」ことを忘れたくないし、忘れない。物質主義に取り残され、それでも笑って過ごす彼らのような人を見ると、いつもそう思う。

「先生、私はこうするのが当たり前だと思ってるし、これからもそうだよ」と言い残し、Z宅をあとにする。次に来られるのはいつのことか、それまで、いやそれからずっと先も元気でいてください。

 ちょいとセンチな気分を引きずりつつ表に出る。さてこれからどうしたものか。そうだ。襄陽路の市場が近いから行ってみようと思う。ニセブランドやら工場横流しやらの服飾品が集まった市場だ。
 もう8時を回っているので、店じまいし始めたところも少なくない。それに、センチな気分を引きずっているので、買物にも熱が入らない。それでも子供のパジャマやらパンツやらを買い込む。と、雨が降ってきた。ありゃりゃ天気予報じゃ雨なんて言ってなかったら傘なんか持ってきてないよー。お腹も空いてきたし、雨宿りにと、淮海路の向かいにある「避風塘」に飛び込んだ。ここは香港でもチェーン化されてるレストランで、上海にもばかすか出来ている。本当ならもうちょっと店を選びたかったけど、激しくなる雨足に、仕方なくという感じ。もやしがたっぷり入った焼きそばと、琵琶鴨(琵琶のようなかたちに開いたアヒルのロースト)をきれいに平らげ、外に出ると、雨足はさらに激しく、タクシーもつかまらない。どうしたものかと思っていると、ちょうど小路の奥にある病院にタクシーが入るのが見えた。しめた! どしゃぶりの中ダッシュをかまし、急患を降ろしたタクシーをつかまえる。「運良かったねー、アンタ」、「そうよー、もう何時間待たされるかと思った」、「まあ、この調子だとあと15分もすればつかまるだろうけどね。雨もうすぐ上がるし」、「えー、こりゃしばらく上がらんでしょ」などと会話をしているうちに、ホテルについた。彼の言う通り、雨はすでに上がっていて、水たまりにビルのネオンが浮かび、空車のメーターを立てたタクシーが行き交っていた。餅は餅屋とはこういうことを言うんだと思った(つづく)

1月19日 くもり
 今日も別の家庭で昨日と同じ取材。8時に起きて、昨日と同じ朝食をとり、9時15分出発。バス停へ向かう。折悪しく「空調」(エアコン付き)バスが出たばっかり。エアコンはどうでもいいのだが、エアコン付きバスは2元で、普通のバスは1元。この1元の差で、混み具合がだいぶん違うのだ。案の定次に来たバスは混み混みで、座席なんか当然空いてなかった。

 昔クリークだった肇家浜路を超えたところでバスを降りる。こちら側は昔は華人地区で、私が住んでた頃も、通りを隔てただけで随分風景が違った。いかにも西洋的なデフォルメがされたフランス租界側の建物に対し、こちら側は質素な昔の建物の中に、急ごしらえで建てられたような粗末な4〜5階建てのアパートが並ぶだけ。それが今は、フランス租界側よりも開発が早かったため、肇家浜路沿いには高層アパートが建ち並んでいるし、裏の道路もすっかり拡張されて、次々と高級分譲マンションらしきものが建てられている。そっか、そういえば不動産屋の店頭に貼ってある物件情報と言い、夕刊で見る物件情報といい、やたらとこのへんの情報が多いもんなーと、実物を見て初めて納得する。

 今日取材をするLさんのお宅は、この一帯に分譲マンションができ始めたばかりの頃に建てられたところだった。3LD+Kで、占有面積は大体120平米だろうか。
 ところで上海(というか中国)で物件を購入する場合、一部を除いてほとんどが「ハコ」だけの購入となる。内装は各戸がてんでで行うのだ。この内装がまた気が遠くなりそうなほど面倒。信頼のおける内装業者に頼むのはもちろんだが、それで安心してはいけない。常に監督し、手抜き工事がないように見張らなければ、やれ水漏れだひび割れだ建て付けだと、トラブル満載は確実である。それどころか、途中まで手を付けたところで料金持ち逃げという話も多い。日本でも分譲住宅のトラブルが色々言われているけど、きっと中国人に言わせると「監督しないアンタが悪い」ということになるんだろうな。こんなところからも、国民性の違いが透けて見える。

 Lさん宅で昨日と同じように取材をし、昨日と同じように昼食をご馳走になる。旬のタケノコ(上海ではタケノコは冬が旬)でつくった「油悶笋」(タケノコの甘辛炒め煮)がおいしくて、ばくばく食べてしまった。

 3時過ぎにLさん宅をおいとまし、ホテルに戻る。今日はこれから、留学時代からの友人のO氏と会う約束をしているのだ。

 O氏は私よりも1年先に留学していた人で、留学後もずっと上海に残り、まさに裸一貫から商売を始めた。当初は電話がコネなしでは引けないので、アパートの共同電話で取引先とのやりとりをし、近所のホテルでFAXのやりとりをしていたくらいである。元バイオリン工場だった、夏はオーブンのように暑く、冬は冷凍庫のように寒い、納屋のような場所を事務所にしたのが確か4年前。それでも彼にとっては、初めて「事務所」を持った記念すべき一歩なのだ。
 それが今では、商売が一気に軌道に乗り、今では虹橋路のオフィスビルに大きな事務所を持ち、数十人の中国人職員を抱えている。億単位の取り引きすら請け負う「企業」に成長した。
 こういう一例があるから「これからは中国だ!」と思われてしまいがちだけど、O氏を見ていて思うのは、「覚悟が違う」ということ。どんなにしんどい時でも、彼が「もうやめようかな、日本に帰ろうかな」と口にするのを、ただの一度も耳にしたことがない。このくらいの覚悟がなくては中国ではやっていけないんだろうな、と思う。彼と私は、留学時代にちょっとした商売を一緒にしたことや、日本人学校のアルバイトが一緒だったことなんかがあって、今でも上海に行くたびに顔を出しているし、以前彼の家が街中にあった時にはよく泊めてもらっていた。精神的には、友人というよりも兄に近い存在である。

 O氏の携帯に電話を入れ、部屋まで来てもらうことにする。来るまでちょっと一休みと横になったらあっという間に寝てしまった。やっぱり疲れがたまってるんだろう。O氏がドアを叩く音で目が覚めた。

「ええホテルやねー」と入るなり部屋を見回し、バスルームを覗くO氏。これがもし自宅だったら冷蔵庫を覗かれてるところだ。彼は人の家の冷蔵庫を覗くのが趣味なのだ。O氏の商売仲間が待っているということで、ガーデンホテルにタクシーで向かう。
 商売仲間のI氏と合流し、O氏最近お気に入りの「徐家私菜精作坊」に行く。家庭料理を高級料理に昇華させた、として、日本の雑誌にも都度紹介されてる高級料理屋だ。
 チンゲンサイの菠を糸のように細切りにして油でからりと揚げた「菜松」や、ローストダックを甘いソースにつけ、小さな蒸しパンに挟む「京式鴨片」、卵の白身につなぎを入れて炒め塩味で炒めあげた料理など、味は予想通り上品なものだった。化学調味料も多分ほとんど使われてない。それより、全ての料理に工夫がある。という点で感動できた。今まで工夫といっても、単に材料を置き換えてみたりというものがほとんどだったから。しかし、ホントに素材の味と料理人の腕が勝負のはずの、干し豆腐の上湯仕立てはちょっと…。干し貝柱の戻し方がまずいのか、臭みが気になってしまった。この料理でうならせてくれたら、手放しだっただけにちょっと残念。ただし、デザートの、陳皮(干したみかんの皮)を入れたもち菓子は、今までどの店でもたべたことがないくらい繊細で、陳皮の香りが鮮烈な絶品だった。

「ちょっとNのところへ行ってええかな」。レストランを出たO氏が言う。Nさんは彼の10数年来の親友で、仕事で日本と中国を行ったり来たりしている日本人だ。今回も仕事で唐山から上海に来た途端鼻血が止まらなくなり、かかった医者の目の前で吐血して入院しているらしい。私が彼と会うのは、錦江飯店のカラオケバー以来16年ぶりである。まさかこんなところで再会できることになろうとは。琉球王朝の末裔でもあるこの人は、私が中国へ行くよりもずいぶん前から北京に住んだりしてて、その歴史もかなり傑作というか波乱万丈というかなのだが、その話はまたの機会に。

 Nさんが入院しているのは、街の中心で福州路に近いところにある、1世紀半の歴史を持つ仁済医院だった。救急外来のソファーに点滴をした人がずらーっと並んでいて、よどんだ空気を一層よどませている。病室が足りないらしく、廊下にまでベッドを置いて、入院患者が私服のまま寝ている。それを横目で見ながらエレベーターで上に上がり、さらに階段を2つ上がったところは別世界。ホテルのような木製のドアが続く特別病棟だ。Nさんはガイジンだから、ここに入院してるんだろう。

 Nさんは定期的に血圧を計るとかいう機械を腕に付けて、病院のパジャマを着てベッドにいた。部屋はバストイレ付きのツイン…もとい2人部屋だが、1つのベッドは当然空いている。「覚えてますかー?」と声をかけると、「覚えてるよー。Oさんから話は色々聞いてるからね」だと。一体何を言われているのだか……。
 吐血したというからかなり心配していたけど、本人は出たくて出たくて仕方ないらしい。「チャーハン食いてーよー」とうなっていた。おまけにタバコを吸い出す始末。タイミング良く看護婦が検温にやってくると、それを素知らぬ顔でO氏に押し付ける。日本では考えられないけど、病室内の喫煙は、中国では別におとがめなしなのだ。「何か飲みますか?」と付き添いの中国人男性が冷蔵庫から取りだしたのはバドワイザー。全くいちいち笑わせてくれる。
 明日の検査のため、10時を回ると水も飲めないらしい。「出たらチャーハン食わせてー」とO氏にせがむ彼は、まるで子供のようだ。それにしても彼は肝が座っている。吐血など
屁でもないらしい。もっとも、吐血くらい、この人のくぐってきた修羅場に比べればカワイイものなんだけど……。

 10時を回る少し前に病院を出て、3人で「La Belle」へ向かう。大分前に掲示板で写真を紹介したけど、1936年に建てられた、呉同文という民族資本家の私邸を改造したレストランである。呉同文は文革の頃、ここの庭で自殺している。レストランになる前は、上海市の都市計画設計院が使っていた。緑色のタイル張りの典型的なモダニズム建築で、セントラルヒーティングやエアコンはもちろん、内部にはアルミサッシやエレベーターなどの最新設備がちりばめられ、当時は世界的にもかなりモダンな作品として注目を集めたという。
「La Belle」はパーティーで貸し切りになっていたので、階下の「The Garden」へ。奥は中国料理の「艶陽天」である。暗くて内装があまり見えないけど、結構改装してあって、原形はあまり残っていない。エレベーターがある部分は別テナントが借りてると聞いて首をひねったが、後日設計当時の平面図を見てなるほどと思う。「The Garden」はこのお屋敷のバールーム、「艶陽天」はビリヤードルームを使っているにすぎなくて、エレベーターは家の真ん中を通る車の通り道を挟んだ向こうにあるのだ。今度は向こう側の中も見てみたい、と思うが、向こう側が何の店だったか、さて全く記憶にない。
 私はお腹一杯だったが、O氏がシーザーサラダを頼んだので、意地汚い私はぺルノーを飲みつつ、ちょっとつまむ。結構おいしいが、ぺルノーには全く合わない。不景気な日本の話や、日本の教育問題などのちょいと硬めの話で、12時クローズで追いだされるまで粘った。外に出た途端、麺を食べたいというO氏(この人の胃袋は一体どうなっているんだ)をI氏と押しとどめ、ホテルに戻る。さっきの話の続きをしているうちに、ベッドに寝ころびながら会話に加わっていたO氏がいびきをかき始める。苦笑するI氏に起こされ、地下鉄の南端近くにある家まで戻っていった。明日も仕事でしょ。少しは寝ないとね。(つづく)