2003.1.16〜2003.1.22
| 1月16日 くもり |
| 前日の校了がつつがなく終了し、いよいよ出発の日を迎えた。日系の航空会社なら午前出発で現地で夕食、なんてことも可能だけど、何しろ一番安いチケットを買ったのでそういうわけにはいかず、夕方の6時近い飛行機である。なので、普段通りに起きて、家の片づけをする余裕まである。荷物は前日、託送で空港に送り済みなので気が楽だ。 この時期の上海は一年中で一番寒い。寒さに弱い私、確かこの時期は部屋で蟄居していた。なのになぜ行くのかというと、他でもないチケットが一番安い時期だからという理由だけである。その中からさらに最も安いチケットを買った。お値段何と往復で2万5千円である。国内旅行だってこんな価格では行けないというのに、ね。今中国旅行をする場合、こういう格安のチケットはもれなくノースウエスト。次いで中国国際航空か東方国際航空といったところだろう。まあ、距離も短いことだし、無事に着ければ私にとってはどの航空会社でもさして違いはない。エコノミークラスの機内食にもサービスにも、ハナっから期待してないし。 成田→飛行機→入国は至ってスムーズ。ところで私、浦東に着くのはこれが2回目である。市内から遠いのがイヤで、ローカルの航空会社がまだ市西部の虹橋空港に離発着している間は、頑なにローカルの航空会社を利用していたのだ。でも確か去年の10月からだったか、国際線はもれなく浦東で離発着ということになり、嫌々ながらの浦東入りなのである。だって、今までなら市内(私は殆ど、市西部のホテルに泊まる)までタクシーでたかだか30元(現在1元=約15円)なのに、浦東からだと軽く100元を超えてしまうのだから。もし渋滞にでも巻き込まれようものなら、200元近くいってしまうだろう。 でも今回は否応なく浦東である。タクシーにそんな金額は払いたくないので(そんなカネがあったらお買い物に回す)、中国では初めて「機場班車」(エアポートリムジン)というやつに乗ることにした。 リムジンバスの乗り場はあっさり見つかった。どうやら市内までの路線はかなり充実してるらしい。南京西路にある静安寺ターミナル行きのリムジンを選ぶ。というか、外に出たらそこが静安寺行きだったんで、何の考えもなく「あ、これでいいや」と思っただけなのだが。 意外なことに、リムジンの中にはビジネスマンらしき、背広をきっちり着込んだ日本人の中年男性が結構いた。私の頭の中では、駐在員や出張族というものはもれなくタクシーに乗り、一流ホテルに泊まるものだという固定概念ができ上がっているから意外なのだ。やっぱり日本が不景気というのは本当らしい。 へえと関心しつつ、彼らの会話を聞くとはなしに聞いていると、さらにびっくりさせられた。後ろの上海女性に向かって「ねえ、上海ホテル(上海賓館のことらしい)まで静安寺から歩いてどのくらいかな?」なんて聞いてるのだ。『マジかよ? 駐在員や出張族というのは、たとえそこが歩いて5分の距離でも“ヘイ、タクシー”だろうがっ!』と思わず心の中で叫ぶ。女性が「20分くらいと思いますよ」と答えると、「そんなにかからないでしょー」なんて言ってるところを見ると、上海の地理にはそこそこ詳しいらしい。知ってるならわざわざ聞くなって。で、このオヤジ達、結局歩いてホテルまで向かったのである。 クリストファー・ニュー著「上海」の中で、日本人の捕虜として連れていかれる、着替えの詰まったスーツケースを持った白人の群れを見て違和感を感じた、と主人公のデントンが語るくだりがある。「いまだかつて、白人達が自分の荷物を持った姿を見たことがないからだ」と彼はすぐに気付くわけだけど、南京西路常熟路の交差点を、白い息を吐きながらスーツケースをゴロゴロいわせて南に歩いていくビジネスマンを見て、私はそれと全く同じ違和感を感じたらしい。彼らは捕虜になっているわけでも公安に連行されているわけでもないけれど、時代が変わったという点においては同じである。要するに、デントンの知っている上海も私の知っている上海も、もうそこにはない、ということなのだ。 そんな彼らを横目に、道端でタクシーを捕まえる。ホテルはちょうど、ここから西南に向かったところで、多分初乗り料金で着くはず。ということは、リムジンバスの料金19元プラス10元だから、空港から29元ということになる。タクシーだったら最低でも130元はかかるはずなので、100元の節約だ。100元あればちょっとしたセーターが買えるし、高級とはいかなくてもちゃんとしたレストランで食事ができる。もしかしたらおつりが来るかもしれない。何と言っても、私が泊まる予定のホテルの最低料金が120元なんだから。こんなちょっとした節約が、上海ではかなり生きてくる。 予想通り、初乗り料金でホテルに着いた。フロントに向かうと、女性が「何号室?」と聞いてくる。「何号室も何も、今着いたばっかりだよ」と答えると、「部屋なんか満室よぉ」だと。 「な、なんだとぉ!?」 私は日本からちゃんと電話を入れ、一泊180元ナリの部屋を6泊で予約した。その時、飛行機が遅い便なので、10時を回るとちゃんと言っておいたのに。どうやら私が6時になっても着かないので、フリの客を入れてしまったらしい。 悪いが、一昔前の中国に住んだ私だ。「ここに住むならケンカ上手になれ」と先輩達に上海暮らしの極意を教わった私だ。久々にケンカの虫がむらむらと湧いてきた。声高に(そもそも私の地声はかなりでかい)こちらには何の落ち度もないことを主張し、最善の策をすぐに提供するようにと詰め寄った。幸い、交差点を渡ったところに同経営のホテルがあり、その部屋が空いているらしい。が、そこでへえ左様でございますかと引き下がるのではまだまだヌルい。今私の部屋に泊まっている客を、明日以降そちらのホテルに移すことを確約し、ついでに今晩泊まる部屋の値段も200元から160元に負けさせる。ホテル代で40元はどうということもないが、これはそういう問題ではない。あーあ、久々にやっちゃった、という感じである。 従業員がスーツケースを引く後ろからとぼとぼと着いていったホテルは、いわゆる「招待所」に毛が生えたものだった。21階建てのビルの、16階から上がホテルで、その下は有象無象の、企業とも言えないような怪しい“会社”が間借りをしている。殺風景なフロントでは、上海人カップルが、300元の部屋を奮発し、エレベーターに消えていく。円いベッドに総鏡張り、日本式風呂場にきんぴかなエッチ椅子の、こってこてのラブホをこの街に作ったら流行るかもと、ふっと思う。 部屋のある17階に上がり、従業員に鍵をもらう。昔式のシステムだ。暗い廊下を通り、部屋に入って思わず苦笑。安物のベニヤの家具一式、一昔前なら誰もが履いていた、ゴムに青いビニールのスリッパ風ゴム草履、駄目押しのようにしっくいの壁が、懐かしのペパーミントグリーンに塗られている。ちょっと前までは、学校と言わず民家と言わず、中国のペンキにはこの色しかないのかと思うくらい、壁と言えばペパーミントグリーンだったのだ。丸テーブルには緑茶のティーバックが1つと、ふちの欠けたガラスのコップ、ステンレスの魔法瓶が、アルミのトレイに乗って無造作に置かれている。全てのマテリアルにおいてここまで完璧に「ちょっとだけオールドな上海」を演出されてしまうと、わびしいとかそういう感情はどっかに吹っ飛んでしまって、図らずも笑みがこぼれてしまうが、一方で「上海ラブホプロジェクト」の可能性が「大上海ラブホチェーンストア大構想」というわけのわからない名の確信に変わってしまう。婚外セックスご法度など、すでに有名無実になっているし、ドラマではしょっちゅう、恋人が妊娠する場面が描かれているくらいなのだから、ラブホくらい市政府の誰かをちょちょいと持ち上げれば、どうってことはない。 妄想を膨らませながら、スーツケースを運んでくれた、目のくりくりした男の子にチップをやろうとポケットを探るも、見つかるのは新しく発行された20元札ばかりで、10元札はどうやら使い切ってしまったらしく見当たらない。中国政府も全く余計なことをしてくれる。それともチップは20元で与えよということなのか。仕方がないから、20元を手のひらに押し込むと、上海人らしからぬオクテな目をした彼は相好を崩す。そりゃそうだろ。河の向こうに一泊数百ドルのホテルが建とうと、億を超すマンションを即金で買う青年実業家がいようと、この街の主人公は相変わらず彼らのような、1杯数元の麺で腹を満たす人びとなのだから。彼らはラブホに幾らだったら払ってくれるのだろうか? 悲しいかな私には商才はないし政治力もない。だからラブホプロジェクトは返上してとりあえず風呂だと、バスタブの蛇口をひねると、たちのぼる湯気から、泥臭さの中に塩素が混じった、上海の水独特のニオイが鼻を突き、「ああ、上海に戻ってきた」と肩から力が抜けていく。バスタブにたまっていくお湯の色はほのかな茶色で、やはりこれも上海である。この街に住んでいる頃はその水質の悪さにぶつぶつ文句をたれたものが、今となっては、上海を感じてほっとさせてくれる数少ないものなのだ。でもきっと住むとなったら、また水が悪いの何のとこぼすんだろう。私もすでにエトランジェであるということだ。やれ高架だ一方通行だ道路拡張だと、もう道もろくにわからないし。 ほっとしたところで、いきなり腹が減っていることに気付く。そういえば機内食が超不味くて殆ど食べなかったんだった。まるで醤油も塩も砂糖もなしで、ケミカルな物質だけで味付けしたような牛肉の炒め物。今から外に出るのもかったるいし(コンビニにすら!)、どうしたものかとホテルの案内をめくると、ルームサービスの黄色い一枚紙がぺろりと出てきた。冷菜からスープまで、品数はことのほか多いが、麺かワンタンか、と軽く悩んだ末、ワンタンにする。3元ナリ。街なかで食べる値段とそう変わりない。 20分ほどして持ってこられたそれを、コイン3枚と引き替えに受け取る。いかにも出稼ぎ風の、薄汚れたピンクの綿入れを着た女の子は、「1時間後に(器を)取りに来ます」と言い残して暗い廊下を去っていく。フタがわりのラップをはがすと、予想に反してスープが醤油で茶色に染まり、ちぎった海苔と開洋(桜エビのように小さな干しエビ)が入った、完全に北京風のものだった。でも皮は確かに上海の厚手だし、中身も青菜とひき肉で、包み方も上海式、だけど中身が北方並に少ない。ところが一口食べると、スープに浮いた安っぽい油のにおいがむかし懐かしい。北方出身の出稼ぎコックが故郷を懐かしみつつ、上海の材料を使ってワンタンをつくるとこうなるのだろう、多分。 奇妙で貧相なワンタンを食したあと、再度バスタブに湯を張ってバスタイム。ぼーっと天井を見つめながら、明日から忙しくなるんだろうなあとぼやけた頭で考えるが、なにぶんぼやけているので、ならばどういう予定にしようか全く思いつかない。だから考えるのはさっさとヤメにして、ベッドに入ることにする。すり切れてところどころ穴の開いた毛布をかぶって、1時過ぎに明かりを消した。上海滞在中、一番早い就寝時間になるかもと、頭の隅で思いながら。そしてそれは現実となった。(つづく) |
| 1月17日(前半) はれ |
| 7時過ぎに目が覚める。日本時間だと8時だから、大体そんなもんだろう。外では丁度通勤ラッシュで、自転車の群れが大通りを横切っていく。今は高架もできて立派な道路になってはいるが、私が住んでいた頃は、この片側車線にも満たない道幅だった。道路の北側の建物をごっそり取り壊し、拡張したのだ。2階建ての貧相な建物ばかりの中、幽霊が出ると言われる、30年代に建てられたホテルが1軒目立つだけで、用事でもなければ来ないようなところだったが、空港の行き帰りには必ず通る場所なので、昔の風景は脳裏に焼き付いている。でも今いきなりここに放り出されて、さてここはどこでしょうと聞かれても、もし件のホテルが見えなかったら、どこなんだか全くわからない。全く、どこを見ても上海の変化はすさまじい。 朝食のチケット(とは名ばかりの領収書にハンコをついたもの)をもらっていたので、20Fのレストランへ行く。列車式の背もたれが高いベンチシートの席が並ぶ。先客は1組のみ。サービスの従業員すらいない。 仕方がないので厨房に行き、「朝飯食わせてくれー!」と叫ぶと、コック服を着た女の子が出てきてどの定食にするかと聞く。そういえば、キャッシャーらしいところにABCと3つセットがあった。Aは麺かワンタンのチョイス、Bはおかゆと中国式目玉焼きと漬物に、肉まんか野菜まんのチョイス、Cは洋式に、パンと牛乳と中国式目玉焼きである。前日のワンタンに懲りていたし、朝のおかゆに目がないので、迷わずBを選択。「まん」は肉まんにした。 ほどなく、オレンジ色のプラスティックトレイに乗って運ばれて来たセットは、ボリュームたっぷり、というか、大ぶりの肉まん2つなど到底食べきれない。なので、1つに減らしてもらう。漬物と書いてあったが、これは私の大好物の、雪菜の漬物と冬筍と細切り肉の炒め物だった。素直にうれしい。肉まんは中身がちょっと少なかったものの、味はなかなか。朝食だけだったら、このホテルは悪くない。 今日からは、予約していたホテルに泊まる。電話をかけ、荷物を取りに来てもらい、このうらぶれたホテルを引き払う。160元に「城市建設費」の1元が付いて161元。北京で暮らしていた90年代半ば、ホテルだろうがレストランだろうがこれがつきまとっていたが、上海で徴収されたのは初めてだ。珍しいのでおとなしく払うことにする。 ホテルには夜戻ればいい。今日は上海に住む日本人、Yさんと街を歩くことにしている。彼女の家まで歩いて1時間足らずといったところだから、ゆるゆる歩いて行けば、1時間半で着くだろう。途中は建築ラッシュが進む上海でも、比較的むかしの面影を残した一帯だし。 まずは南に下り、興国賓館を目指す。昔、ある企業のセミナーのコーディネーターをやった時の投宿先だ。広大な敷地にむかしの洋館がぽつぽつと建ち、内装から家具までアンティークという、とても風情あるところで、当時は中南海から要人が来ると追いだされ(実際最終日には追いだされてしまった)、もっと前には、紹介状がなければ泊まれなかったのだが、今は華山路沿いにラディソンが高層ホテルをおっ建てて、ラディソン興国などと名乗っている。旧館にはもう泊まれないいう話も聞いていたので、ずっと気になっていたのだ。 ラディソンのフロントで旧館には泊まれないのかと聞くと、何と泊まれるらしい。でも経営が全く別なのでと教えてもらったのは、昔と同じフロントの場所だった。通りがかった時にまだあるのは見たが、まさか使われてるとは思えないほど、さびれた雰囲気が漂っていたのだが……。 懐かしいそのフロントに行くと、見覚えのある顔がいた。セミナーの時のお世話になった、マネージャーのSさんである。もう6年も前のことなのに、彼も私を覚えていてくれた。やはりラディソンができてから、宿泊客がすっかり減ってしまったらしい。そうだろう。日本の女性誌でも、紹介されてるのはラディソンばかりまっんだから。オールド上海好きでもなければ知らないようなホテルだったのが、さらに客が減っているとは、ゆゆしき状況である。 私の来訪に喜んだSさんは、「日本で紹介してくれよ。写真バシバシ撮ってくれてもいい」という。喜んで! 何せラディソンのスタンダードが220ドルなのに、こちらのスタンダードは70ドル。220ドル出せば、デラックススイートに泊まれるのだ。しかもこの値段はプロパー。上海のホテルは大体ディスカウントが利く。20%offにはするよとSさんが言う。老房子(古い家)、しかも歴史の証人のようなホテルに、7000円足らずで泊まれるのだ。これを損と見るか得と見るか、私は明らかに後者である。 平屋造りの8号楼は改修中ということで、一番大きい1号楼に行く。ここは1935年に建てられ、元は太古洋行のゲストハウスだった。30年代後半〜40年代の上海でトップダンサーだったマヌエラ嬢(日本人)が自伝「上海ラプソディー」(WAC)の中で、「広大な庭を夏の間だけ開放する」と書いたクラブ、「サマー・ガーデン」ことアルゼンチーナになった時期もあり、文革中は毛沢東の大本営になったと、昔上海で知り合った日本華僑に聞いたこともある。ちなみに、歩いて5分ほどの湖南路武康路にある別館には、江青が住んでいたこともある。こっちはいかにも昔の洋館らしく、ちょっと暗くてじめじめした感じ。江青の幽霊が出てきても不思議じゃない、って雰囲気なのだ。いずれにせよ、歴史の浮沈を見続けてきた館たちである。 まだあどけない表情をした従業員に出迎えられ、1号楼の門をくぐる。6年前と何一つ変わっていない。風情のある廊下は暗いが、そこから部屋に入ると、1階のデラックスルームにも太陽の光が注ぎ込む。これも広い前庭のおかげだ。マヌエラ嬢は、アルゼンチーナだけのナンバー“アルヒミメレ”をこの前庭で踊り、40年代初頭の上海の夏の夜を南国色に染めたのだろう。樹齢100年を超す大木がでんと構えているのも変わらない。これは確か上海市の保護樹に指定されてるんじゃなかったっけ。 2階に上がると、部屋には陽光がさんさんとさしこむ。セミナーの時に社長が泊ったデラックススイートは右奥の部屋。ここは2間続きで、リビングには昔雀卓に使っていたと思われる4人掛けのテーブルが置いてあり、食事が摂れるようになっている。ホテルというより、小奇麗な一般家庭のようだ。バスルームにも大きな窓があって明るい。アメニティはラディソンと同じものを使っているのか、以前よりもいいものになっている。ソープはオートミールとアーモンドのスクラブ入りだった。 2階のデラックスルームには、重厚な紅木ではなく、合板家具を使った部屋もある。合板とはいえアンティークだし、寄せ木でアール・デコのモザイクがされていて、モダンなのが好きな人はこっちのほうが気に入るかもしれない。天井から吊るされたランプも、昔のままのアール・デコだ。とにかくどの部屋もアンティーク家具しか使っておらず、それも部屋ごとにデザインが違う揃いの家具ときてるから、部屋に入った時に統一感を感じるし、やっぱり古い建物にはアンティークが良く似合う。全室突き抜けだけど、2階には広いバルコニーもある。ここに椅子とテーブルを持ってきて、老木を見下ろしながら朝食、なんて優雅なことも可能だろう。 残念だったのは、3階のスタンダードルームが満室で写真が撮れなかったこと。セミナーの時に泊まったのだけど、多分使用人の部屋だっただろう、天井が斜めに切れているこじんまりとしたもので、太陽もあまりさし込まない。スイートにも泊まったけど、実は私、この小さな空間が一番お気に入りなのだ。パリのどっかの家に間借りしているような気分にさせる、そんな部屋だ。 参考までに、ホテルの場所と連絡先を記しておく。狙うならお客が少ない今のうち。 興国賓館 上海市興国路72号 電話 021-62129998 ファックス 021-62512145 料金(繁忙期を除けば20%off) スタンダード75ドル、デラックスルーム120ドル、スイート180ドル、デラックススイート220ドル、エキストラベッド15ドル さて、ルンルンで興国賓館を後にして、ぶらぶら歩きながらYさん宅へ向かう。この近辺は、旧上海の中でも一番お屋敷が多かった地帯で、今は政府の要人やら軍関係の人が多く住む関係だろうか、ほとんど再開発の手が入っていない。さらに最近は老房子ブームで需要も高まっているから、超一等地に建つ質のいい建物を壊すなどという愚挙にはそうそう出られないはずだ。租界になったのが30年代と比較的早いため、モダニズムっぽい建物が多いのも特徴だ。淮海路を渡り、さらに南に下ると、Yさんの家はすぐそこである。(つづく) |
| 1月17日(まんなか) 引き続きはれ |
| Yさんの家は、租界の頃にカウフマン通りと呼ばれた道の弄堂(横丁)をちょっと入ったところにある。近年でっかい高級マンションができてしまってちょっと興ざめだけど、それ以外は租界当時の面影を残す、閑静な住宅街だ。 この通りは1930年につくられた。租界はバンド(外灘)から始まって西へ西へと延びていったが、フランス租界の西部で、高級住宅街にあたるここが拡張されたのは、租界ができ始めてから100年近くあとのことなのだ。そして、同じフランス租界でも19世紀中期にできた東部は、水夫がたむろし、最下級の売春婦が客を引き、秘密結社の巣窟といった場所だった。浦東から出てきた杜月笙(青幇のおやぶん)の上海デビュー(当時の浦東は地理的には上海でも、上海人の心のなかでは上海ではなかった)も、フランス租界の最東端にある十六舗という波止場の果物屋の丁稚である。 などということを頭の隅にでも置いて街を歩くと、上海はもっと楽しくなる。共同租界には共同租界の風景があり、さらに昔そこがどういう場所だったか、どういう階層の人が住んでいたのか、いつごろできた租界なのかでまた風景が違う。これはフランス租界も同じだ。上海は開港以降、さまざまな物語を生み、それをエサに膨らんでいった都市だから、残されている建物やゾーニングから、その物語を紡ぎだす作業がとてつもなく楽しい。 Yさん宅は、1930年代に建てられたであろう3階建てで、小さな庭付きの一軒家だった。白い壁に四角い建物、横丁に面していきなり玄関のドアがあり、庭に通じる鉄門と高い塀。横丁を挟んで、全く同じつくりの家が建っている。このスタイル、当時は建て売り住宅に結構多かったらしく、近辺を歩くとそこら中に見つかる。総面積は500平米といったところだ。日本の「ウサギ小屋」暮らしにはため息の出そうな住まい。彼女はここに家族とメイドとで住んでいる。 彼女は以前、ここからそう遠くない安福路の新しいマンションに住んでいたが、子供も増えたことだし、ということで引っ越しを思い立ったという。ご主人はどうしても庭付きの家がよく、彼女はどうしても市の中心に住みたかった。夫婦ともむかしの上海が好きだっということもあり、むかしの一戸建てに限定し、物件探しを始めたという。ここに決定するまでに見た物件は20以上。その中から、むかしの建物にしては1階でも日当たりが良い、このカウフマン通りの建物に一目ぼれして決めたそうな。具体的な家賃には触れないが「すごく高いから給料持ち出し」とだけ言っておこう。 間取りはいかにも当時の上海の建て売りといった感じ。1階に各20畳ほどのリビングとダイニングがあるが、元キッチンだった場所は壁をぶち抜いてリビングに続いている。その裏は食料庫。廊下の奥の昔は運転手の小部屋だっただろう場所にあるキッチンは、ドア1枚でガレージに通じている。元キッチンに通じる裏庭にはちゃんと水まわりがついている。洗濯機のなかった頃はここで洗濯したんだろう。 2階と3階は同じつくりで、メイド部屋や納戸にするような北側の1部屋と南側の2部屋とバスルームである。中国人はすごく部屋の向きにこだわる。構造と広さから、彼女が北側の部屋を子供部屋にしようと言ったら、家主に「こんな悪い部屋を子供に与えるなんて、何てかわいそうなことを」とたしなめられたらしい。キッチンの上というのも、「悪い部屋」の条件になるらしい。風水思想がしみついてるのだ、彼らは。しかし階上に上がってみると、やっぱり北側の部屋は寒いしちょっとじめじめしているし、南側の部屋は太陽がふんだんに入ってきて気持ちがいい。やっぱり人の言うことは聞くもんだなあと思う。 さて、前日頭がふにゃふにゃだったせいで、何も行き先を考えていない。Yさんのいれてくれたおいしい烏龍茶を飲みながら地図を睨み、ルートを考える。そうだ! 「上海歴史ガイドマップ」著者の木之内先生から「衡山路にある上海唱片廠(上海レコード工場)の中の洋館がレコード資料館になったらしいんで調べて来てくれ」と頼まれていたんだっけ。ここからは歩いて10分ほどの距離。決めた。その洋館を訪ねたら昼をちょっと過ぎた時間になる。そこで淮海路方面に抜けて、おいしい麺を食べよう。そこから先は出たとこ勝負。 Y宅を出て西に向かう。が、Yさんは唱片廠は壁が壊されて緑地帯になり、洋館はレストランになっているという。んん? そなの? などと言っているうちに目的地に着いた。友人が以前、この向かいのアパートに住んでいたので、このへんの地理は熟知してるつもりだけど、ホントにきれいさっぱりなくなって緑地帯になっている。最近上海市政府は緑地計画を積極的に進めてるという話だが、こんな歴史あるレコード工場すらやっちゃうんだねぇ……。 そしてYさんの言う通り、かつてフランスのレコード会社、パテー(中国語で百代)の持ち物だった洋館はレストランに変身していた。その名も“La Villa Rouge”。赤い別荘。入り口にはメニューが出ていて、落ち着いた雰囲気の中年男性のレセプションがいる。これはポイント高い。高級感を狙うなら、若いおねーちゃんより、中年男性のほうがずっと“絵”になるから。 で、肝心のメニュー……。た、高い……。夜でワイン頼んだら軽く800元は行きそうな勢いだ。「こりゃ110元(だったかな)のアフタヌーンティーがせいぜいだねぇ」とふたりため息をつき、せめて中を見せてもらえないかとレセプションにお願いすると、あっさりOKが出た。 元レコード会社ということを意識し、壁にはSPレコードやら胡蝶などの女優や上海の音楽家やらの写真が額装で飾られている。昔の蓄音機もある。今上海では「洋館を改造したレストラン」が大流行りだが、元の内装をぐちゃぐちゃにいじってしまう店も少なくない。が、ここはできるだけ昔の趣を残そうとしている、茶を基調とした薄暗い空間。特にバーが美しい。 「せっかくだからシェフにも会ってってくれ」と言われ、お言葉に甘えることにする。シェフの福井進さんは、葉山のチャヤにいたあと、アメリカが長かったそうだ。上海に来る前は、大阪のインターコンチネンタル。上海への来意を伺うと、「(料理は)自由にやらせてくれる、という条件つきで」と笑う。ここの料理はフレンチベースのコンチネンタルといったところか。なるほどメニューを見ると、ミソ、ワサビなどの文字が見える。食材の入手に問題はないのかと尋ねると「全くないですよ。ハーブはアメリカの会社がやってますし、魚だって充分新鮮なのが手に入ります」。そうか、上海もすでにそこまで来ているのか。レタスの入手すら困難だった暮らしをしていたものにとっては、夢みたいな話だ。 レセプションと福井シェフにお礼を言い、店を後にする。「食べてみたいけど高いもんねー、やっぱ日を改めてアフタヌーンティーでもしようよ」と話しつつ。結局2日後、思い掛けなくディナーをゴチになるのだが……。 時計を見ると、もう1時近い。「あの」麺屋のことだから、品切れになっちゃうかも! というわけで、ゆるゆる歩いていく予定をタクシーに切り替える。しかし、麺食うためにタクシーって……。 目的の麺屋は、孫中山(孫文)故居(昔住んでいた家)の近く、思南路にある「阿娘麺館」こと「泰和飲食店」。上海の裏道を歩けばそこここにあるフツーの麺屋と変わらない、間口2間ほどのごくごく汚くて、ごくごくありふれた店である。でも、上海では「阿娘麺」(おかあさんの麺)と言えば通じてしまうほどの有名な店なのだ。 上海に来て「本場のラーメン」を食べたいという人はたくさんいるけれど、上海には日本のそれのような「コシがあってちぢれた黄色の麺」はない。唯一近かったのが、今はなき西蔵中路にあった名もなき蘭州拉麺の店だけど、今は区画整理にあってなくなってしまったし。そこの拉麺、蘭州で食べたのより美味しかったんだけどな。牛肉の塊がごろごろ入ったスープの寸胴には漢方薬がたくさん浮いてて、麺は好みに応じて太打ち、細打ち、平打ちがリクエストできた。注文がくるたびに麺を打つのを見てるだけでも飽きなかった。店はそこらの麺館に輪をかけて汚くて、さすがの私も箸持参で通ったものだ。 さて阿娘麺館である。案の定大方のメニューが終わっていて、黄魚麺(いしもちそば)しかできないと言う。いいよ、食べられるだけで充分。いしもち大好きだし。2両(100g)の麺を頼み、欲張ってトッピングに滷蛋(味付け卵)と雪菜肉絲(高菜に似た雪菜という葉菜の漬物と肉の細切り炒め)も頼む。なんか、すごくてんこ盛り。だって上海の麺屋はこういう風に好きなだけトッピングができるのが楽しいんだもん。さすがに魚の麺はちょっと高くて、2両で12元、それに卵が1元、雪菜が1元で、全部で14元だ。うわー、麺に10元以上使うなんてーと思ってしまう。 ほどなくして麺が運ばれてくる。うん、さすが行列のできる店らしく、盛りつけもスープの色も繊細って感じ。って、単に麺を流れがあるように盛りつけてあるだけなんだけど。いしもちは5cmくらいの「段」(拍子木切り)に切ったものに小麦粉をはたいてさっと揚げたものを塩味で軽く炒めてある。さすが仕事が細かいね。この手のメシ屋で魚を頼むと生臭かったりするけど、それもない。いしもちの歯ごたえはぷりぷりしてて、塩加減もいい。雪菜と卵は、蘇州風の甘めの味付けだ。これはいしもちの味とちょっと衝突しちゃったけど、それぞれ美味いから許そう。 ここを開いたおばさんは、上海では麺専門店として有名な「滄浪亭」の人から麺づくりを教わったという。なるほど細目だけどコシのある麺も、トッピングの甘い味付けも、滄浪亭に似てる。違うのは、澄んだスープがもっと淡泊なのと、この店が裏通りにあって、もっと庶民的で、もっと安いということ。潔癖症でないなら、一度は訪れてみる価値はあると思う。キレイ好きの方には滄浪亭か、最近勢力拡大してる「呉越人家」がオススメ。 阿娘麺館 思南路19号(淮海路寄りの東側) ※昼時をちょっと外すと品切れの可能性あり 麺にトッピングでかなり腹いっぱい。Yさんともゆっくり話したいし、ということで、淮海路に出て、台湾資本の喫茶店、「仙踪林」に行く。道路に面したぶらんこ席が名物(?)の店なんだが、ぶらんこはいつも人気でふさがっている。案の定この日もふさがっていた。というわけで、奥の落ち着ける席に腰を下ろす……その前にカウンターで注文するようになったんだ。私は胚芽タピオカミルクティー(でっかいタピオカと胚芽フレークがたっぷり入ってる。お腹に良さそう)、Yさんは総合タピオカミルクティーというもの凄い名前のものをオーダーする。タピオカ以外にも仙草やらあずきやらがごちゃごちゃと入っているから総合らしい。この手の台湾系喫茶店、上海でもあちこちで見かけるけど、とんでもないメニューがめじろ押しなのが楽しい。昨今飲食関係に台湾勢力が出過ぎてて、上海の食文化を食いつぶしそうなのに不満な私だけど、この手の喫茶店だけは、「どんなトンデモナイもんが出てくるんだろう」とおっかなびっくり注文するのが楽しくて、つい足を踏み入れてしまう。 コクがあって甘いミルクティーをじゅるじゅる、もそもそした胚芽をもぐもぐしながら、Yさんと上海のことや、男女の価値観の違いについてかれこれと語り合っているうちに時間はどんどん過ぎる。貴重な上海での時間をムダに過ごしているように見えるかもしれないけど、やっぱり一昔前の上海を知っている人と話すのは楽しい(彼女も私と同時期に留学していた)し、新しい発見もあったりするから、街を見るのと同じくらい、私にとっては大切な時間なのだ。ようやく腰を上げたのは、4時を過ぎて外が暗くなりかけた頃だった。 これからは恐怖のお買い物タイムである。まずは薬局に向かい、「絶対買いだめする」と決めていた“金[口桑]子喉宝”を16箱。いわゆるのど飴なんだけど、私のなかでは断トツの効き目なのだ。よっておみやげ用も含めて多めに。 「いいTシャツの店連れてったげる!」と、Yさんを瑞金路のCーPIXへ案内する。ここ、去年上海衛視(ローカルのケーブルTV、スカパーでも見られる)の街ネタ番組で採り上げられてて、半年前に来た時、すっかりお気に入りになった。Tシャツやジーンズは全部オリジナル。生地や縫製がしっかりしてるし中国テイストの柄も多く、値段も手ごろなのでおみやげにもぴったりだ。上海の洋服のサイズは小さいから、Sサイズなら小学校中学年くらいから着られるだろう。とりあえず娘に、で選んだのは、犬柄のグレーのハイネックと、赤いVネックの、龍袍(清朝の皇帝服)をデザインしたものの2点。各75元。 瑞金一路と陝西南路沿いには、若い女の子向けのセレクトショップやアウトドアショップがたくさんある。どの店も、店主の個性で選んだ商品ばかりで、見ているだけで飽きない。日本人がたくさん泊まるガーデンホテルを過ぎ、淮海路を渡って南に下ったところでYさんはタイムリミット。やっぱり夕食は家族一緒でないとね。復興路で別れ、私は7時にもう一人の日本人、Oさんと会うまでの時間つぶしをする。子供服の工場横流しを売っている店で、ESPRITの綺麗なピンクのセーター、OSHKOSHのストレッチコーデュロイの黒いパンツを、110元のところを90元まで値切り倒して買う。それぞれの店で買う量は少ないけど、ちびちびたまって両手は結構大荷物。これ以外にも、夕刊やら週末紙やらと、細々したものを買っているし。 結構いい時間になったので、Oさんと待ち合わせているガーデンホテルへ。ホテルオークラがやってるので、日本語が通じるから日本人がたくさんいる。そういえばここのソフトオープンのパーティーに呼ばれたっけ、料理豪華だったよなーとか、領事館主催の名刺交換会に留学生の分際で招待してもらった時は、名刺交換よりも「わー刺身だ刺身だー」だったっけなどと、思い出すのは食い物のことばかり。早めに着いたので公衆電話から国際電話でもするかな、と思ってカードを差し込むと、8元しか残っていずに断念。しゃーない、休みながら夕刊でも読むかと、ソファにどっかり腰を下ろした。(つづく) |
| 1月17日(後半) 引き続きはれ |
| ほどなくOさんが来た。実は彼女とは初対面。上海に留学したあとそのまま残り仕事をしている。そして彼女の住まいは老房子、というわけで、食事のあとはもちろんお宅拝見である。 その前に荷物もあるし部屋も見てないしで、Oさんと一緒にホテルに戻ってチェックイン。 ここ、老房子を改造したプチホテルなのだ。部屋数はわずか16室で、昔は使用人の部屋だったのかなと思わせる2階建てが後ろにあるが、今は前後の建物を屋根でつないで、パティオを挟んで向かい合うかたちになっている。エントランスには家具やら金魚鉢やら観葉植物やらが飾られてて、しゃれた雰囲気を醸し出す。朝食付きで、昼食も夕食もここでとることができるが、メニューは定食1つきりらしい。予約がなかなか取れないと聞いたけど、少なくとも日本から1月の頭に電話した時はすんなり予約できた。ま、到着後いささかのトラブルがあったことは事実だが(あとで従業員に聞いたら、常に予約で満杯だそうだ。もうかってまんなぁ)。 魅力的なのはその価格。私の部屋はスタンダードの風呂付きツインで180元。トイレ、シャワー兼用のシングルなら120元、風呂付きシングルが160元、ちょっとグレードを上げてダブルルームが280元、トリプル360元、スイートでも420元という安さなのである。おまけに共同の洗濯機乾燥機もついているのが、ちょっと長めの滞在にうってつけだ。 私の部屋はパティオの向こう側、つまり元使用人部屋の1階の一番奥だった。家具は全て新しいものを使っている。人が通るから落ち着かないかな? と思ったが、ドアを閉めてしまえば外の音はほとんどひろわないし、そもそも部屋数が少なくて客数も少ないので意外と落ち着ける。部屋がやたらと暗いのと、バスタブがやたらと浅い(中国のバスタブって何でこんなに浅いのが多いんだ?)のを除けば、結構快適である。 夕食はOさんがここからだったら歩いていけるから、というので、ちょっと西に行ったところにある“1221”にすることにした。看板は上海料理で、日本の雑誌に採り上げられたことも少なくない。 目的のレストランは、すごく目立たない場所にあった。ビルの1階なんだが、まるで搬入口みたいな通路を通った奥にある。雑誌の写真で見たよりもずっと雑然としている。これは客がいっぱいいたせいかもしれない。とにかく流行っている。それも白人がやたらと多い。さてそんなに魅力的な料理を出すのかというと、不味くはないし、おいしい部類には入ると思うけど、とびぬけてというほどではない。注文したのは確か臭豆腐(豆腐にカビをはやしたやつを揚げたものに、唐辛子みそをつけて食べる)、清炒菠菜(ほうれん草の炒めもの)、砕藕蒸肉餅(レンコンとひき肉の蒸し物)とあと1品だったと思うが記憶にない。それから青島ビール。しかし食後のサービスに香煎八宝飯が出てきたのはうれしかった。これは、バナナ、あんこ、蒸して植物油と砂糖で味付けしたもち米の順番に重ねて、上火を利かせて焦げ色をつけたもので、ここのオリジナルらしい。上海では今、食事をすると果物をサービスに出してくれるところが多いようだが、そのほとんどがスイカなので、スイカ嫌いな私にはちっともうれしくないサービスだったのだ。そんな中オリジナルのデザートを気前よくサービスする点で、ポイントは大幅に上昇した。下のバナナが舌の上で熱くとろけ、その香気が香ばしいもち米と絡み合う。そして2つの個性をほどよく中和してくれるのがあんこというバランス感覚も良い。 デザートにすっかり気を良くしてお勘定をする。158元。ビール小瓶2本しか飲んでない割にはちょっと高いかも。でもまあ、最近の上海の標準といえばこんなものなのかもしれない。 さて、いよいよお宅訪問。Oさんの家は、前述のYさんの家からそう遠くない場所にある。かつては中産階級が住んでいたと思わせる、ちょっと前なら上海中どこにでもあったような典型的里弄(日本式に言えば長屋)住宅である。表通りから“○○里”と書かれた門をくぐり、横丁に入る(上海の里弄の殆どはこうした門があり、その中はさらに袋小路のように小道があちこちに伸びている。大きな里弄であれば、向こう側の道路にまで通じていることがある)。門をくぐると、そこは昔のままの風景があった。赤レンガの壁が、ところどころにつけられた電灯のオレンジ色の光に浮かび上がり、その奥には、どこまで続くかと思われる同じ建物の群れ。一旦曲がると、方向音痴の私は間違いなく元の場所に帰れなくなるだろう。そして、吸い込まれそうに暗い闇。私は上海の魅力は夜、それも闇にあると信じて疑わないのだが、この独特な闇の色が取り壊しでどんどん失われていくのが悲しかったのだ。この弄堂(横丁)ができたのは30年代のいつごろか。それから70年以上もの間、この風景や闇の色は全く変わってないに違いない。 どこまで行っても同じ建物が続くなか、Oさんはあるドアの前まで来ると鍵を取りだした。ポストがいくつもついている。昔は1軒占有だったものが、今では1フロアー1家庭が当たり前、場所によっては、1フロアーを数家庭で共有していることだってある。そんな住宅事情だから、たとえ郊外であろうとも、彼らが1つのドアを独り占めできる生活を待ち望み、取り壊しを積極的に受け入れようとする気持ちはよくわかる。 入口付近は共有の台所で、ガスコンロがいくつか置いてある。今は誰も使っていないので真っ暗だ。その横にある薄暗い階段を登り、3階まで行くと、階段が大きな扉で塞がれている。里弄に住む上海人で、最上階に住む人はもれなく、防犯上の問題からこうして階段をふさぐ。久しぶりに来た里弄の風景の懐かしさに思わず感動が走る。 階段の向こうにはもう1つドアがあり、その向こうがOさんのリビング兼ダイニング兼寝室兼書斎である。早い話がワンルーム。面積は30平米くらいであろうか。そこに貸主が残していっただろう旧式の家具が収まっている。バストイレとキッチンは上階にあるが、これはバルコニーだったのをふさいだもの。これも上海の里弄ではよくあることだ。Oさんはここで、“旦那”のペルシャ猫と同棲中、というわけである。 寒さにめっぽう弱い私のために、Oさんがゴム製の湯たんぽ(日本では昔氷まくらとか呼ばれてたもの。上海では湯たんぽなのだ)にお湯を入れ、どことかの田舎で買ったというぬいぐるみでできた「湯たんぽ入れ」に入れてくれる。上海の里弄の冬は寒い。だから起きている時でも常に湯たんぽを抱いているのだ。私が上海に着くほんの1週間前はものすごく寒く、彼女はついに「こたつ部屋」と称する、四仙卓(4人掛けの四角いテーブル)にふとんをかぶせ、中を電熱式の暖房器具で温めるという、まるでかまくらみたいなものをつくって、そこにこもっていたらしい。確かに暖かそうだが、火事がいささか心配である。 湯たんぽを抱き、茶を飲みながら、昔の上海へのアツい思いを語り合う。湯たんぽの優しいぬくもりは、いつも眠気を催させる。こいつのせいで、私は遊びに行った上海人の友人宅で昼食後、晩飯に起こされるまで惰眠をむさぼった。帰りが遅いのを心配した留学生仲間にそのことを話すと、「人ん家で寝てくるなんて聞いたことない!」とさんざん呆れられた。だってマジでキモチイイんだもの、眠くなるんだもの。 私の眠気を悟ったのと、翌日が8時起きだと知ったOさんは「これから飲みに行こうと思ったけど…」といいつつ、ホテルに戻って休んだほうがいいと言う。時計を見るともう1時近い。そうだ、明日は取材なのだ。起きられなかったらシャレにならない。もっと話していたかったけど、おいとますることにする。眠気のせいで、写真はついに撮らずじまいだった。(つづく) |